第5話。これにて完結です。
お金より地位より名誉より、出会いこそが人の財産だと思います。
誰かの為に一生懸命になれるって素敵な事ですよね。
「人生の成功は、自分が死んだ時に何人の人が泣いてくれるかで決まる」
・・・と云う言葉がありますが、私の場合は、
「死ぬ時に、頭の中に何人の“ありがとう”と伝えたい人の顔が浮かぶか」
・・・だと思っています。君と歩んだ人生は、僕にとってかけがえのない宝物。
そう伝えられる人と出会えたらきっと、その人生は成功と呼べるのかも知れません。
彼にとってのあの子が、あの人にとっての彼が、そうである事を祈って。
ここまでお付き合い下さり、有り難うございました。
夕暮れの大通りを鳥口は雑踏を掻き分けるようにして進んで行く。
行く先々で誰かの肩や腕にぶつかってしまうのは彼が現在、
弱視のように目をすがめて歩いているからである。
彼が目指す先は勿論、榎木津の住む神保町の探偵事務所である。
◆
鳥口は自分の仕事について、それなりの信念と誇りを持っている。
たかがカストリ雑誌の記者だ。万人の憧れる職業ではない。それでも、
この立ち位置からでしか見つめる事が出来ない世界と云うものは確かに存在しており、
そこに立つ者にしか切り取れない社会というものが存在するのは事実である。
自分はアンダーグラウンドに片足を突っ込んで生きて来た人間だ。
社会の「負」や「陰」や「穢れ」の部分ばかり見て来た。
言わば、湿っぽい墓地の苔蒸した石をひっくり返し、その裏に住む薄気味悪い虫が
うぞうぞと這い回っている様を観察して目に焼き付けて来たような人間である。
暗部。
裏側。
底辺。
しかし、そこでしか生きられぬ者がいる事も、鳥口は知っている。
光が強く眩いほど影は濃さを増し、昼間の世界をあぶれた人間からすれば
闇夜の漆黒は酷く甘美だ。敗者が居なければ勝者は存在せず、醜さを知らずに
美しさを讃える事は不可能である。
そんな強かで傲慢で哀れで、どこまでも強靱な「生」のリアルに照準を合わせ、
ファインダーに収めて来た。それに関して後悔は無い。
ただ、それでも一つだけ気に掛かる事があるとすればーーー。
(大将、)
彼は“綺麗なモノ”が好きだと言った。
猫と赤ん坊は、そういう物が沢山視えるから好きなのだと。
なら、彼にとって自分はどのように映っているのか。
(榎木津さん、)
自分が彼にとって“綺麗なモノ”で居られたら、それはどんなに、
(礼二郎さん…!!)
鳥口は群衆にぶつかる事を物ともせず、一路「薔薇十字探偵社」に向けて走り出した。
・・・愛しく大切な「あの人」に会う為に。
◆
カラン、といつもの様にドアベルを鳴らして中に入ると、丁度出掛ける支度をしていた
助手の益田が前髪を揺らしながら少し驚いたような顔をした。
「やあ鳥口くん、久しぶりだねぇ!あれ?青木くんと
3人で飲みに行くのって来週じゃなかったっけ?」
「いや、それはそうなんだけど…」
そう言って鳥口が口籠もると、益田は「ははぁーん」と言ってニヤニヤした。
「丁度いい時に来たねぇ鳥口くん。僕はこれから依頼人に報告書を渡したら
そのまま直帰だし、うるさい小姑は買い物に出たばかりで当分戻らないよ」
うるさい小姑とは和寅の事だろう。言われて見れば確かに見当たらない。
「君のお目当ての“大将”は寝室に居るよ。まだ寝てるんじゃないかな?
僕や和寅さんが起こそうものなら酷い目に遭わされるけど、まぁ君なら大歓迎だろうね」
そう言うとケケケ、と彼独特の八重歯を見せた笑い方をされる。
益田は鳥口と榎木津の関係を知っている。
以前、鳥口は和寅が不在の折りに榎木津の部屋に泊まり、翌朝
寝室から出た所を早めに出勤して来た益田とばったり鉢合わせた事があったのだ。
「まぁ、水入らずでゆっくりして行きなよ」
ポン、と肩を叩いて益田は事務所から出て行く。
今日の彼は何か良い事でもあったのか、心なしか浮き足立って見えた。
ドアノブに手を掛けた所で益田がそうそう、と言って振り返る。
「今日、下の会計事務所が休みだから“大きい声”出しても大丈夫だよ?」
「益田くんッ!」
鳥口は、あからさまな益田の言い分に真っ赤になる。益田はそれに取り合わず、
「僕も今日は司さんの家に泊まるんだ。じゃあまた来週!」
そう言って跳ねるように階段を降りて行った。
上機嫌の原因はそこだったか、と鳥口は合点が行った。
益田が現在付き合っている司と云う男は鳥口は一度しか会った事は無いが、
普段は海外を飛び回っているらしく、鳥口と榎木津のようにちょくちょく会う事は
叶わないのだそうだ。今夜も久しぶりの逢瀬なのだろう。
それなら彼が浮き足立つのも頷けると云うものである。
かくして、静まり返った事務所に一人残された鳥口は、
榎木津の眠っているであろう寝室のドアの前に立った。
「・・・大将、僕です」
一応そう告げてノックするが中からは何の返答も無い。
躊躇いがちにドアを開けるとベッドの上で羽根布団がこんもりと山になっていた。
やはり彼は眠っているのだ。
部屋の中に一歩踏み出すと、毛足の長い絨毯に靴が沈み込んだ。
「大将、あの…」
静かに上掛けを捲ると人形のように整った顔が覗いた。
規則的に上下している肩を見ると、やはり熟睡しているらしい。
鳥口はベッドの真横にしゃがみ込んで榎木津の顔を凝視した。
長い睫毛、整った鼻筋、形の良い唇。今は閉ざされている瞼が開けば、
色素の薄いアーモンド型の瞳が自分の顔を映すだろう。
榎木津に早く目覚めて欲しくて、でももう少しだけ安らかな寝顔を眺めていたくて、
鳥口は彼の飴色の艶やかな髪をそっと撫でた。
(眠っている時だけは、“嫌な物”は視えないもんな…)
鳥口はふいに口吻けたくなって、彼を起こさぬように恐る恐る唇を近づけた。
互いの鼻息が掛かる位置まで接近して、あとほんの僅かな距離で
唇が触れ合う所まで来た時、目の前の榎木津が唐突にパチリと目を開けた。
突然の事に鳥口は驚いて、飛び上がるようにして立ち上がる。
「た、大将!?」
「…なんだ、鳥ちゃんじゃないか。おはよう鳥ちゃん」
「お、おはようございます。…もう夕方ですけど」
鳥口の指摘を無視して榎木津はぐん、とベッドの上で伸びをした。まるで猫のような格好だ。
「なんだ、マスヤマはニヤニヤして。気持ち悪いなぁ」
…先ほどの益田の浮かれた顔を視ているのだろう。
今さっき帰りましたよ、と告げると「喜久ちゃんの所だろ」と返された。知っているのだ。
「で、君はなんでそうも人にぶつかりまくって来たんだい。
方向音痴が高じて、とうとう真っ直ぐ進む事も困難になったのかい?」
「違いますよう。今日は榎木津さんに見せたいものがあって、」
そう言うと鳥口は特に鞄やポケットを探る訳でもなく再び榎木津の枕元にしゃがみ込んだ。
榎木津の瞳に映り込んだ己の姿を見つめるようにーーー。
「…にゃんこだ」
おもむろに榎木津が口を開いた。鳥口の顔がぱっと明るくなる。
「可愛いでしょう?生まれたばかりの子猫をくわえてたんです」
「…白鳥」
「この季節になると公園の池に飛んで来るんですよ」
「…飛行機雲」
「僕、未だに飛行機雲見るとワクワクするんですよね」
「…赤ちゃんだ」
「よく眠ってて可愛いですよね。8ヶ月だそうですよ」
「…あ、虹」
「昼間、にわか雨が降ったでしょう?それで、雨上がりに一瞬だけ東の空に…」
「鳥ちゃん、」
榎木津が唐突に両手で鳥口の両頬を挟んだ。
「…僕の為か?」
鳥口はゆっくりとかぶりを振った。
「半分は自分の為です。でも、貴方に見せたかったってのは本当です」
貴方に見せたい“綺麗で素敵なもの”を、たくさん目に焼き付けて。
そこから余計な物を見ないで済むように目を細めて来たら、散々人に
ぶつかりまくっちゃいましたけど、そう言って鳥口は笑った。
「…僕に出来る事なんて、せいぜいこんな事ぐらいですから」
次の瞬間、鳥口の視界は反転した。靴のままベッドの中に引きずり込まれたせいだ。
大将、靴が…と云う声は榎木津の唇によって塞がれる。
ちゅ、と微かな音を立てて唇が離れると、今度は額と額を突き合わせた。
互いの瞳には今、互いの顔だけが映っている。
榎木津が口を開く前に鳥口が言葉を紡ぐ。
「…上手く言えないけど、僕は榎木津さんのその目も全部ひっくるめて、全部好きです。
だから、僕の目を通して榎木津さんに“綺麗なもの”を視てほしくて、」
「馬鹿だなぁ」
榎木津はそう言うと目を細めて笑った。それは鳥口の一番好きな表情。一番好きな笑い方。
「そんなの、いつだって見ているさ」
「え?」
そう言って榎木津は再び鳥口の唇に口吻けた。
「僕にとっての“綺麗なもの”が君自身だと言ったら・・・君はどうする?」
「・・・!!」
「僕の目は確かにこんなだけど、やっぱり僕の“見る目”は間違ってなかったなぁ。
君は本当に、一緒にいて心地良いよ」
「榎木津さん、」
「僕が選んだのが君で良かった。君でいいんだ。僕は・・・君がいいんだ」
「礼二郎さんッ!!」
後はもう、言葉など必要なかった。ただ互いの瞳に映るものだけが全てだった。
ただ、今、榎木津が鳥口の頭上を見つめたとしても、
明瞭な己の顔を視る事は出来ないだろう。
何故なら鳥口の視界は今、目の前の相手に対する思慕に潤み、静かに揺れているからだ。
それは一つでも瞬きをすれば、たちまち零れてしまうだろう。
だからその前に榎木津は、彼の耳元に一言、
彼の“贈り物”に対するお返しとして言葉を贈った。
「ありがとう。君を好きになって良かった」
(了)
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