クローズド・スカイ 5

第５話アップしました。今回から「海軍編」です。続きからどうぞ↓↓

僕が予科練に入ってから、早くも３ヶ月が経とうとしていた。

ここに来て分かった事は、軍隊という所は兎にも角にも理由があろうと
無かろうと、下の者は上の者に理不尽にブン殴られるという事だった。

やれ声が小さいの動作が遅いの、下を向いたの横を向いたの、なんとなく
気に入らないのと、なんだかんだと上官の気分次第で「貴様、歯を食いしばれ」と言われて
ガツンとやられるのだ。僕も最初は随分やられた。僕の場合、理由は言葉遣いだった。
軍隊では同僚や下の者の前では自分は「俺」で相手は「貴様」、上官の前では「私(わたくし)」、
上官の事は階級付きで「○○殿」と呼ばねばならず、これまで一人称を「俺」と言った経験の
無かった僕は、度々人前で「僕は～」と言ってしまい上官の不興を買って殴られた。

もう一つは方言だった。

僕なりに標準語に近い喋り方をしているつもりでも、相手には酷い東北訛りに
聞こえるらしく、僕らの担当だった意地の悪い上官には「貴様、なんだその
みっともない喋り方は」と因縁を付けられては再びガツンとやられた。

僕はこの理不尽な仕打ちに最初の頃こそ悔しくて眠れぬ夜を過ごしたが、
その内にそれは元来僕の中に眠る負けず嫌いな闘争心に火を付ける結果となり、
意地になってラジオ放送のような模範的な言葉遣いをするように心掛け、
徐々に自分のものにして行った。こうなると上官には僕を殴る理由は無くなり、
愚鈍なうすのろでもなければ決して要領も悪い方ではなく、若くて体力もある僕は
徐々に予科練の中でも居場所が確保出来るようになった。何事も慣れと云う事だろう。

最初は首輪のキツさや不自由さに辟易していても、次第に首輪をしている事
そのものに慣れ、不自由でもキツくてもそれが「当然」になってしまう瞬間がある。
生き物には環境への適応力がある。そうでなくては生きて行けないからだ。
そして戦争という、最も平凡な日常から乖離した特異な状況下においても、
それを「当たり前の日常」として受け入れてしまう己の強かさを果たして
感謝すべきなのか、はたまた呪うべきなのか、日々の日課をこなすだけで
精一杯の僕には、その正否は分からなかった。

そしてもう一つ分かった事は、同じ海軍学校でも満足に白い飯が食えるのは
海軍兵学校の方であって、僕の入った海軍予科練は相変わらず粗末な飯が
出ると云う事だった。だから最初の晩に見慣れた黄色い挽き割り飯と
得体の知れぬ佃煮と蒸かした芋が出た時は心底がっかりした。

あれは予科練に若者を呼び込む為の一種のデマゴーギーだったのだ。
まんまと引っかかった若者は僕の他にも大勢いて、それがせめてもの
救いだったが「じゃあ帰ります」と云う訳にも行くまい。こんな食事で
「貴様、腹から声を出せ」などと言われても無理な相談である。
しかし口答えなどしようものなら100倍にして返されるのでおくびにも出せぬ。
国を守る為に選ばれた学徒という矜持だけでは腹は膨れないのだ。

僕は決して腹の底から従順な優等生ではなかったが「らしく見える」と云うのは
無駄口の利けぬ軍隊生活においては大いに役に立つ処世術であった。
例え威張り散らした上官に対して心の中で舌を出していても、顔や態度に
出なければ睨まれる事も憎まれる事もない。僕は実際、上手くやっていたと思う。

・・・だからと言って、自分だけ訓練が軽くなる訳でも無いのだが。

しかも予科練は海軍の訓練に付け加えて、陸軍でもないのに匍匐前進や兎跳び、
行進の練習までやらされて一日の終わりには精も根も付き果てた。
だから夜には脂じみた湿っぽい煎餅布団でも泥のように眠り、出された物は
何でも食った。毎日を無我夢中で過ごす内に日々は矢のように僕の横を通り過ぎて行く。

 

・・・それでも時折、夢を見た。懐かしくて優しい、君の夢を。
君はその穏やかな瞳で、口元に柔らかい笑みを浮かべ、心地よい声で
僕の名前を歌うように囁くようにそっと、こう呼ぶのだ。
 

『・・・ねぇ、文ちゃん』

なんだい、弥生。

伸ばした手は空を掻き、ひどく優しい幻覚と引き換えに残酷な朝が訪れる。
どこを見渡しても、君がいる筈はないのに。いつも視線だけで辺りを見渡してしまう。

・・・その癖だけは、未だに治らぬまま。