これにて完結です。
長い事お付き合い下さり、感謝いたします。
取り留めもなく走り抜いてハァハァと荒い息を吐きながら、月明かりに反射する水溜まり
を覗き込むと、そこには胡乱な目をした、幽鬼のような顔をした自分が映っていた。
僕は堪らなくなって、幼子がするように何度も何度も滅茶苦茶に水溜まりを踏みつけた。
ボロ靴からはじわじわと雨水が染み込んで来て、惨めな気持ちに余計拍車が掛かった。
僕の下半身は、先ほどの清子との接触でしっかりと反応し、
ズボンの上からでも分かる程に勃起していた。
お上品にしているつもりなどない。
自分が汚れを知らぬ、お綺麗な人間だとは露ほども思っていない。
むしろ自分は「あの日」の秘密を胸に飼っている以上、他人より穢れた
人種のように感じて打ちのめされる。自分の性的な部分に強い罪悪感を感じてしまう。
自分が男である事を嫌悪してしまう。それは仕方のない事だと分かってはいても、
そう感じる自分を止める事が、僕にはどうしても出来なかった。
僕は「性的な人間」である自分が、堪らなく嫌いだ。
それでも体を渦巻く熱に身動きが取れず、僕は乱暴な手つきで右手を動かした。
ぶるりと体が震え、青臭い体液がそれまで手をついていた木の幹にびしゃりと掛かる頃、
僕の目からは込み上げる吐き気のせいだけではない意味不明の涙が出た。
対岸には月明かりに煌々と照らされる、焼け残った忌まわしい港の倉庫が見えた。
僕は、ちゃんとした大人になるのと、頭がおかしくなるのと、どっちが先なんだろう。
それとも、もう少しはイカレ始めているのかも知れない。
・・・完全に狂ってしまえば楽になれるのかな。
どの考えも取り留めもなくて下らなくて、酷く苛々した。
◆
あれから時は流れて昭和28年。
大磯海岸にて、僕は陰鬱な小説家の知り合いと肩を並べて歩いている。
砂浜に足を取られる感覚は神奈川育ちの僕には懐かしいが、隣の彼には少々難儀なようだ。
でも手を貸してやるつもりはない。彼も僕なんかにそうして欲しくはない筈だから。
ふと見ると向こう側から、みすぼらしい野良犬が足を引きずってやって来る。
砂浜に点々と赤い染みが落ちる。どうやら後ろ足を怪我しているようだった。
「縄張りの喧嘩で負けたのかな。痛そうだ」
小説家が口を開く。僕はそうですねぇと適当に相槌を打つ。
彼の「痛そう」だと共感はしても「可哀相に」と同情しない所が僕は好きだ。
彼は僕と同じ匂いがする。
だから僕は思ったままに口に出してみる。
「鼠にやられたんじゃないですか?」
「ネズミ?あんな大きな犬に立ち向かう程、豪気な鼠がいるのかね」
豪気というより向こう見ずだなぁ、訝しげな顔のまま小説家は呟いた。
「それが居るんですよ。ほら、言うでしょ?“窮鼠は犬をも噛む”って」
小説家は呆れたように訂正した。
「それを言うなら噛まれるのは猫だろう。
君は最近、榎木津だけじゃなくて鳥口くんにも似て来たんじゃないか?」
僕はお得意のへらりとした顔で「うへぇ、申し訳ない」と、よく言葉を間違える
気の良い友人の真似をしてみたが「似てないよ」と一蹴された。
似せているつもりなど端から無いのだけれど。
「でも鼠だって追い詰められたら相手が犬だって噛み付く位はするでしょう。
食物連鎖できちんと相手の血肉になるならともかく、戯れでいたぶり殺されちゃ敵わない」
「やけに拘るなぁ。なんでそんなに鼠に肩入れするんだい」
「いやぁ、僕は自身が矮小な人間なもんで。弱いものを見ると他人事に思えないだけですよ」
「君ねぇ…」
「それに、」と何か言い掛けた小説家の言葉を遮って僕は続ける。
「あれは猫なんて可愛いタマじゃ無かったですよ。薄汚い野良犬そのものだ」
「“あれ”ってのは何だい?」
僕は問い掛けに答えず、尚も続ける。
「…だから僕は、強姦と暴力は許せないんです。
あんなのは人間のやる事じゃないですよ。犬畜生にも劣る」
僕にしては珍しい吐き捨てるような物言いに、目の前の彼は
少し驚いたような顔をしつつも、再び訝しげな顔をした。
「全く、君の会話には一貫性ってものが無いのかい。何を言ってるやらさっぱり分からないよ」
僕は笑う。可笑しくなんかないけれど。
「いいんですよぅ。関口さんは分からなくて。よく言うでしょ、知らぬが花って」
それだけ言うと僕は彼にくるりと背を向けた。
元よりこれは彼とは別の次元の独り言なのだから。
世の中には知らない方が幸せな事が山程ある。
…でも、不幸にもそれを知ってしまったら、もう後戻りは出来やしない。
ならばいっそ、自分の本音など露ほども漏らさず、全て仮面で隠してしまうのはどうだろう。
ーーー嗚呼、それはなんて素晴らしく、画期的なアイデアなんだ。
(了)
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